生きづらくても生き続ける~バリキャリとゆるふわのハザマ~

ADHD(グレーゾーン)、HSP(HSS型)、遅延性フードアレルギーに苦しむ27歳こじらせ女子がもがきながらライフハックを提案する場

セクハラは女性差別だとかいう問題じゃない

狛江市の市長がセクハラ問題で疑惑をかけられている。

テレビを見るたびああ、またか、との印象である。

昨年末から#MeToo運動が盛んになり、ネット上でははあちゅうが有名クリエイターのセクハラを暴露したのが結構話題になったと思ったら、春には財務省事務次官のセクハラ問題が更に大きくとりあげられ、世間一般的に話題になる回数が多くなっているよう。

Twitter上ではフェミニストvs男尊女卑保守派の終わらない論争が続き、実社会でも将来加害者たちのような社会的地位まで上り詰めるであろうエリートサラリーマンたちはそんなこと言ってどうせイケメンなら許すんだろ、もうセクハラの境界線とか考えるのだるいから定義を決めてよと嘆いている。

 

私は女性だが、幸いにも女性だからという理由で明確な差別を受けたことはないため(もちろん生きづらさを感じたことは山ほどあるが)、セクハラ問題についは完全なフェミニスト寄りの主張を持つには至らない。しかし一方で、セクハラニュースについては無視できず、ニュースを見るたびに言いようのない心地悪さ、気持ち悪さを感じる。

 

というのも、「おれ、偉いんだから人の気持ち考えず何してもいいよね」という傲慢さ、精神的な未熟さに嫌悪感を感じるのである。

それは対女性に限らず、男性部下に怒鳴り散らす男性上司にもあてはまる。

また場合によっては「偉いんだから」が「忙しんだから」とか「余裕がないんだから」に変わったりするわけだが、いずれにせよ、いい年の大人がその程度の精神的発達しか遂げていないことに驚きを隠せず、キモっとつい反応してしまうのである。

 

と偉そうに言ってみたものの私にもそんな彼らの片鱗はあるのかもしれない。例えば、先日女性の先輩に、「男性の後輩に彼女の有無聞くのもセクハラになるらしい」と聞かれドキッとした。飲み会の席で、自分では単なる後輩イジリだと思って発した、うっかりとした発言に対し嫌がっている後輩もいるかもしれない、と思った。

うっかりとした、とは書いたものの、その時の私の発言に悪意がなかったといえば嘘になる。僅かではあれ、一瞬ちょっと嫌なことを言ってしまおうという攻撃心がその時の私には確かにあった。

ではなぜ、そんな攻撃心を持つに至ったのか、とよくよく振り返り考えてみると、私も過去に同じイジリを先輩から受けたことがあり、またそのイジリに「我慢した」経験があるからだ。「わたしも同じことをされたのだから、若手は同じ目に合わないと不公平だ」という心理から私は攻撃心を後輩に向けていた。

 

今セクハラ加害者と言われている人たちもそういう思いがあったのではないだろうか。

セクハラではないにしろ、上司に理不尽に怒られたり怒鳴られたり、、「偉い人にやられたけれど、自分は下だから逆らえなかった」というそういった過去の負の経験が、偉くなった時に、別の誰かに噴出する、それがセクハラ、パワハラの根底にはあるのだと思う。彼らからすれば、なぜ昔の人は見過ごされたのに、自分たちは許されないのか、と余計に不公平を感じるのだろうが、負の連鎖はどこかで断ち切らなければならない。今がまさにそういう時代だということだ。

 

ではそれを次の世代に連鎖させないためにはどうすればいいのか。

それは怒りを持続させることなく、その場その場で怒りを精算することである。

その方法は人によって違うだろう。倫理的には、許すことがいいとされてるけどそんなの人によっては難しいだろうから、上司に逆らって自分の思いをぶつける、でもいいし、日記に書いて怒りを昇華させるでも、友達に愚痴を言って発散するでもよいから、その件について自分の中でもやつくのはその場で終わらせなければならない。

金持ちだろうが、社会的地位があろうが、自分がやられて嫌だったことを弱者に対して行うことがないように、自分なりの精算方法を身につけたいものである。

(ちなみに私は公開するしないに限らず文章に落とし込む昇華方法が合っている)