生きづらくても生き続ける~バリキャリとゆるふわのハザマ~

ADHD(グレーゾーン)、HSP(HSS型)、遅延性フードアレルギーに苦しむ27歳こじらせ女子がもがきながらライフハックを提案する場

「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という幻想

10年ぶりに夏目漱石の「こころ」を読んだ。

 

 

 

 

最後に読んだのは高校卒業直前の春休みだっただろうか。

読書というのは同じ本でも読む時期によって異なる感想を抱くものだというが、この10年の間に恋愛を経験して結婚をしたことで、恋愛を知らなかった高校時代とは、また違った感情が湧き、新鮮な気持ちで楽しめた。

 

全編の感想はまた別に置くとして、以下の小説の一節が気になったので今回はそれについて考えてみたい。

「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」

この台詞、ネット上で「夏目漱石の名言」として取り上げられてたり、頭悪そうなアイドルが座右の銘としてあげたりしているのだが、勘違いも甚だしい。

この先生の一言が言葉の矢となり、先生の親友であったKは自殺したのだ。

Kは医者になれという養家の反対を押し切り、宗教哲学の勉強を続けている男で、意志の力で自分を律することが生きがいであるようなストイックな人物だった。

そんなKが先生の片思いの相手、お嬢さんを好きになり、それを知った先生は、Kを心変わりさせるべく、この言葉を発し、Kのことを追い詰めるのである。そしてKは自殺した。

だから、この一部を切り取って名言だなんだと言っている人は小説を読んでないと告白しているようなものなのだ。

私の彼らに対する憤りは別にして、重要なのは、切り取ってみれば座右の銘にもなりそうな名言にも感じるであろうこの言葉が、小説内では人を殺すまでに至った凶器になってしまっているということだ。

 

「何事にも向上心を持って上を目指すべき」という成長至上主義は、小さなころから私たちに刷り込まれている価値観であり、社会に出てからもそれを当然のこととしている風潮が特に現代社会では強い。

 

しかし、果たして本当にそうだろうか。

 

就活生時代、周りの友人たちが外銀外コン!財務省、外務省!と鼻息を荒く就活に精を出す中、私はなかなかやる気が出なくて、でも彼らたちに負けたくなくて、焦っていた時期があった。

「せっかく親にいい教育を受ける権利をもらえたのだから、頑張っていい企業に就職しなければならない。そして女性でも結婚後も出産後も働かなければならない。上にいかなければならない。でも頑張れないよ、どうしよう」

と私は当時付き合っていた彼氏に相談したら、次のように彼は言った。

「人間、上に行くために生きてるんじゃないんだよ、幸せになるために生きてるんだよ。だから、頑張れないんだったら頑張らなくていいんだよ。」

彼は大学院への進学を考えていたから、私の気持ちなんてわからない、だからこんな頭の中お花畑なことが言えるんだ、と彼に反発しながらも、気が張っていた気持ちは少し収まった。

社会人になり仕事をしはじめて、あまり自分が競争社会とかストイック精神とかに向いていない人間であると気づくといった、ちょっとした挫折を味わったあとだと、彼の言ったことはやはり正しかったと改めて感じる。

逆にあの時、彼が何らかの理由で私に悪意を持って、意図的に私を傷つけるがために、「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と言ったらどうなっていただろうか。Kのように自殺するまではいかなくても、回復するために時間がかかるほど打ちのめされていたことは想像に難くない。

 

人間は「意思の力を養った強い人」になるために生きているわけではない。「幸せ」になるために生きているのである。

だから、Kのようにお嬢さんへの恋心に惑わされるたり、成果を出さなければならない仕事で頑張れなくても、決して悲観することはないはずだ。

 

漱石の時代以上に成長至上主義に陥っている現代だからこそ、そこから敢えて外れてみる、という心の余裕を持ちたい、と思う。